兼六園が出来る前は何があった?

中世までの記録はありません

石川県は、かっては鉄が出土する能登が都会で、加賀は田舎扱いされていました。
そして残念ながら兼六園が築庭されるまでは、この場所がどのような使われ方をしていたかは記録がありません。現・兼六園の部分は樹木が多い湿地帯で、蓮の花で覆われていたそうです。
一向一揆宗がこの地に寺を建立するまでは、手つかずの自然が残った場所だったのですね。

儒学者・王伯子と金工・程乗の居住

最初に歴史に登場するのは加賀藩主二代利長の時代。利長が中国から儒学者・王伯子を招き、この地に住まわせたそうです。それからこの地の使用方法はしばらくコロコロ変わり、金工・程乗の住まいや工房があったり、飢饉の際には民の救済の為の大規模な施設として使用され、最終的には兼六園の前進となる「蓮池庭」が整備されました。
接待の為の大きな施設だったそうですが、火事の多かった金沢。1759年(宝暦9年)4月10日に発生した宝暦の大火で、その大部分が消失してしまいました。
その後、再び兼六園として整備されたそうです。

兼六園の名付け親は不明です。

よく松平定信が『洛陽名園記』を引用して、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名したとされていますが、最近の研究で松平定信が「ここ、兼六園って言うんだ?」との発言の記録が残っているそうです。
前田家に縁のある京都の公家人では?との説もあるそうですが、残念ながら不明です。