日本最後の仇討は加賀藩に縁ある事件です

本多政均(まさちか)暗殺

幕末、加賀藩の政権の主導権を握っていた本多政均は、鳥羽・伏見の戦いの時には佐幕派でしたが、明治政権が成立すると新しい状況に遅れないように藩制の改革に積極的に取り組み、進歩派のリーダーとして活躍しました。状況を把握・分析する能力があったのですが、素早く大幅な制度改革について行けないものがあり、政均批判の声が高まりました。
そして遂に明治2年8月7日、金沢城二ノ丸御殿の廊下で、二人の刺客に暗殺されてしまいました。刺客の言い分は、政均が派閥を作って政治を欲しいままにしている、との事だったそうです。
本多政均は前田氏最高禄の家臣という事でたくさんの部下もいて、人望もあったのでしょうね。
その政均の家来が、犯人の身柄を引き渡して自分達の手で処刑させて欲しいと、何度も嘆願したが認められなかったそうで、それでも復習を誓う十数人が生き残りの一味の内、三人を襲い、仇討を果たしました。
明治4年11月23日のことで、これが日本最後の仇討となりました。
ちなみに、復讐禁止令が出されるのは、明治6年2月のことです。